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受験古文指導における全訳不要論について

全訳不要の読みは、全訳できる相当の力が前提

 全訳不要を唱える方は

「わかるところを読み繋ぎ、わからないところは推測」
「大切じゃない部分は読み飛ばせ」
「こまかい訳よりも、主語・目的語・述語を追え」

ということが多いように思います。私も似たようなことをいう場面がなきにしもあらずで、それは試験の場で制限時間で解こうと思えば、そうならざるを得ない場面があるからです。

 しかし、上記のような芸当ができるのは、ほぼ全訳に近い形でお話が読めるからではないでしょうか。

 真面目な学生が、学校等できちんと訳す訓練を積み、しかし試験で伸び悩むことがあります。それをたとえば予備校などで、「全訳不要」と習うと、センター試験でいきなり40点以上を安定して取れるということがあるわけです。この時、彼は学校できちんと全訳訓練をしていたから、それができたのであるということが大切なのに、「全訳不要」が一人歩きをしてしまったように私は思います。

 

全訳は大切な作業、過程
 単語と文法を覚えたり、古文常識に知識を得ることが当然なのは言うまでもありません。

 今度はそれを駆使して、古文そのものと真剣に向き合うことです。これがなければ、いわゆる「速読」などできようはずがないのです。

 

これからの話
 教育産業の中には、全訳不要の立場に立って学校での古文学習を批判する人もいますが、それは的外れであり、「自分だけがおいしいところ取り」をしているとも言えなくはありません。

 また、学校側から予備校講師に対する耳の痛い批判が出てきてしまうのも納得できますが、試験の現場で点を取らねばならない事情からそのような指導が出てきて、それに騙されてしまう生徒がいるというその事実を問題視していただきたいと思います。

 私も学校の現場にお邪魔することがあるのですが、幸い相談をしながら、良好な関係を築き、相乗効果が生まれていると実感しています。学内予備校というシステムが増えてきている昨今、そういうケースがたくさん生まれているのではないかと思います。その一方で、お互いが水と油のようになってしまい失敗した例も何度か聞いたこともあります。

 

全訳は精読か
 全訳ははじまりであって、精読ではないと思っています。

全訳をしてみて、そこからはじめて様々なことに思いを馳せるような深い読み、古典の知の世界に分け入っていけるように思います。

そういう意味では、たとえ訳文を配っている状態・ある程度の訳が分かっている状態で、そこからどんなことができるか。そこに読みの楽しみがあるようにも感じています。

 

指導の場で
 以上、述べてきましたように私は全訳は絶対に必要なことだと思っています。

しかし、受験生や高校生が自力で全訳をするのが難しいケースもありますし、たとえ表面的に全訳ができても中身がよくわからないということは起こるでしょう。そのために教科書には注釈があり、入試の古文でも問題文に注が施されているのです。

 今後、この注釈が十分なものであるか、検討していくことは大切だと思っています。端的に言えば、もっと充実したものにしていくべきだろうと思います。受験指導においても、思い切って、この部分は注を付けるべき所についての提言などを大学側や試験作成側に行っていくべきでしょう。

 答えや問題の作りに対して、「悪問」だ「良問」だという議論はよくありますが、「注が適切か」「注を付けるべきだ」という議論が必要です。そして、ここまではわかっておいた方がおいて、ここから先は興味があれば知っておく程度でよいというように、線引きをしてあげたり、適切な補助線を引く役割を教える側がしていかねばならないと思います。