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古文の教科書と注釈についてのあれこれ

はじめに

 今まで私は、学校で教科書を用いて教えることもありましたし、今でも学校で扱った文章について質問に来る生徒は少なくありません。そのため、手許にはできるかぎり多くの教科書を集め置いており、中身もチェックしています。出典についての思うところは、また別の機会に書くとしまして、今回は注釈について思うことを述べます。

 

訳してみたがわからない
 当時ある高等学校で教えていた時に、とても熱心な生徒がいました。普段教えている生徒ではなかったのですが、よく質問に来てくれました。ある日、頑張ってはいるが古文がよくわからないのだと打ち明けてくれたのです。辞書や文法書を駆使して、毎回品詞分解と全訳を施し、逐語訳をしてはみるのの中身が全くわからないということでした。そして、今までのテストでも、よくわからないが配られた訳だけを丸暗記し、テストに望んでいたのだと話してくれました。

 このことから分かるのは、ただ表面的に訳された現代語訳の文章を読んでも、古文が分かるとは限らないということです。単語も文法も大切だですし、品詞分解や逐語訳は過程として重要なのは間違いありませんが、それで全てではありません

 

予習フレンドリーを目指して
 そこで、各教科書を見てみますと、各社様々な工夫を凝らしているのは分かるがわかります。しかし、注釈はもっと充実させてよいのではないかと感じています。辞書と文法書を参照しながら、予習にきちんと取り組んだ子が報われるくらいの注釈には施しておくべきだと思うのです。せっかく頑張って予習をして、自分で訳してみたはいいけれど、結局意味不明であるということが少なくないのではないかと感じています。そんなに意味不明箇所が多いならば、予習なんてせずに授業を聞いてわかったほうがいいではないか!と思う生徒がいてもおかしくありませんし、それならまだよくて、そもそも古文なんて読む気も無くすという生徒も少なくないだろうと推測されます。

 一人で予習して、疑問点が出てくる、つまりここまではわかるがここからがわからないとか、そういう状態に持っていくには、現行の教科書では注釈が少なすぎるか薄すぎるように思うのです。大学の講義で使われるテキストであっても、もう少し充実した注があったりすることがありますし、所謂注釈書では、はるかに詳細な情報を載せてくれています。

 

注釈が充実しすぎると…
 あまりに注釈を充実させすぎると、授業の意味がなくなるのではないかという意見があるかもしれません。例えば訳をして終わり、中身をさらっと説明して終わりというのが授業なのであれば、それはそうなのかもしれません。しかし、まずある程度の中身がわかってからが勝負なのではないかと思うのです。そして、訳だけでわかっているというならば、それはあまりに古文を知らなさすぎるというか、乱暴というか、とんでもない考えではないでしょうか。さらに、ただ訳文を読み上げるだけの授業も実際に存在していると話に聞いたことはあるにはあります。また、読み上げるならまだましで、ただ訳文を配ってそれで済ませるケースもあるといいます。時間は限られているので、何かの事情でやむを得ずであって、決して故意の手抜きではないと信じたいものです。

 

おわりに
 予習や復習を受講者に要求するのであれば、自身も彼ら以上の学び手であろうとすべきでしょうし、そうありたいと常々思っています。そして、予習や復習が実りあるものになるように、工夫をしていかねばならないでしょう。