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美味しいもの、美容、ファッションときどき古典。

古典はおキライですか……?

 予備校で教えていた間に、「古典キライ!」という声を何度聞いたことか。私自身は古典が好きなので、とても悲しい気持ちになったわけだけれど、自分が好きなものを他の人が好きだとは限らないし、自分の好きだという気持ちを人に押し付けることはしたくなかったし、そういう押しつけはあまりいいことではないとも思っていた。それでも、少しでも「古典スキ!」という人が増えてくれたら、やっぱりそれは嬉しいことだ。

 

 そもそも、古文にせよ、漢文にせよ、現代の受験生にとってはとっつき難いものに違いないのだ。あまりに我々の生活とは遠いし、何かわかりやすく将来の役に立つと言える要素があるわけではないのだし。単なる趣味の世界である。相当にマニアックなじゅみの世界であって、役に立つ立たないという土俵に古典を引っ張り出した瞬間に、その議論は泥沼というか、そもそもそういう基準で論じること自体がナンセンスだとも思う。とりあえず、受験というフィールドに限るならば、受験科目として古典があるのであれば、それが合格に必要ならば関わらざるを得ないし、合格に役に立つということはありそうだ。ただ、ここでより問題に感じるのは、古典のとっつき難さは、古典そのものの受験科目としての難易度に紐づくわけではないという点だ。これを考えていくと、行きつく先は、受験に限った問題でなくて、社会全体が古典に価値を見出さなくなっているという問題にぶちあたるのではないかと思う。

 

 私たちの生きている世界からは、古典の世界は相当に距離がある。古文は自国のものであり、漢文は西洋文明以上に自国の文化に与えた影響は大きいのだけれども、古典を学ぼうとした瞬間に、古典はものすごく遠いのだ。海の向こう側のことよりもずっとずっとずっと遠くのものに感じられる。私たちの生きる世界からはもう失われてしまっているか、失われつつあるものだから、身近に感じることがとんでもなく難しい。だから、教養として古典に触れることに価値を見出すなんてことも難しくなって当然と言えば当然なのかもしれない。

 

 次から次へと変化していき、それを進歩と捉えて、前へ前へと進んでいこうとする、それが無限に続いていくように感じられるようなそんな時代にあって、油断すると過去は顧みられないものになっていくのではないか。古典も然り。私たちと古典の距離は縮まるどこから、遠くなっていくばかりなのである。古典そのものは決して簡単でも生易しいものでもないが、受験科目としてはその難易度は決して高いものではないと思うのだが、それにも関わらずとっつき難くく、嫌われるということの背景には、そもそも私たちの社会が古典を受け入れる器を失いつつあるからのように思う。

 

 この古典との隔たりを、距離を、十分に自覚することからはじめなければならないだろう。この距離が、様々な誤読を生んだり、読めない、分からないという状況を生み出す。そのことへの気づき、自覚が、出発点となるならば、古典に楽しみを見出せる道も残されているように思う。